現在は交通網が発達し、量販店などにいけば明太子は売られています。

 

通販でもしっかりとしたコールドチェーンの中で早ければ翌日に手元に届くようになりました。


このように手軽に明太子を購入し、すぐに手元に届く様になったのはいつからなのでしょうか。


それはどうやら比較的最近のことであり、戦後しばらくの間は遠方の個人へ届ける事は困難であったと思われます。


ここでは戦後の輸送、交通網について見ていきます。 


まず1951(昭和26)年頃から交通運輸事業の本格的な再建が進行し、トラック輸送が急増しました。


一方で航空交通もGHQが民間航空会社に路線開設を許可してから1951(昭和25)年に日本航空が設立され運行開始し、1953(昭和28)年には日本ヘリコプター輸送が東京~大阪間で貨物輸送を開始しています。


これら物流が本格的に成長を始めるのは昭和30年代頃からはじまった神武景気の頃からです。


1957(昭和32)年頃には自動車の保有台数が200万台を突破しており、高速道路の建設も進み1965(昭和40)年には名神高速道路が全線開通しました。


ではまず航空について見ていきます。

航空貨物では、1955(昭和30)年に日本通運が業界に先駆けて「混載業務」を開始しました。これは複数の顧客の貨物をまとめて一つにして航空会社へ委託する輸送方法です。


昭和44年度の国内航空貨物混載業務の輸送品目の割合は以下の通りでした。


但し発砲スチロールが日本で初めて生産されたのが1959(昭和34)年であることからも冷蔵品、冷凍品の輸送が可能であったか検証が必要です。

 

貨物の品目別内訳では,食料品(幹線一般貨物における重量比率44.8%),電気機器類(同10.9%),書類・印刷物(同10.4%),機械類(電気機器を除く。同8.9%),動植物(同8.0%)等が多く,とくに食料品が高い比重を占めているのが注目される。

(引用:昭和44年度運輸白書、国土交通省)

旅客の空の輸送に関しては利用され始めて間もない1950年代は東京から大阪間の片道の航空運賃は6000円で東京から福岡の片道の航空運賃は11520円でした。

 

当時の昭和27年の銀行員大卒初任給が5600円であったことを考えると、とても高価な移動手段であったことがわかります。

 

その後東京から札幌、福岡間にジェット機が就航しました。この時、1961(昭和36)年の日本航空各線の時刻表を示します。

 

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(資料:時刻表、1961(昭和36)年) 


これより通常は東京(羽田)を出発して大阪(伊丹)に寄航してから、福岡(板付)に着いていたことがわかります。

 

この間の東京(羽田)~福岡(板付)間の所要時間は4時間20分となっており、金額は12600円でした。


新しく登場したジェット便を使用した場合は東京~福岡間は直通で1時間30分で移動することができました。 しかし金額はさらに高くなりジェット便では普通席が13600円、特別席は15600円でした。 

これを鉄道と比較します。 

 

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(資料:時刻表、1961(昭和36)年) 

同じ昭和36年の東京から博多までの所要時間は急行で7時間54分、料金は2等の料金が800円、1等のが1920円となっています。

 

航空機での移動時間は短いのですが、運賃が鉄道と比べるとやはり高価であることがよくわかります。

 

一方、鉄道ではジェット便登場の傍ら1956(昭和31)年に東海道本線を全線電化し、1964(昭和39)年の東京オリンピックに合わせて東海道新幹線を開業しました。


以前と比べると速度も早くなり、鮮魚の高速列車、直行列車では輸送時間を約一日短くして荷物を輸送できるようになりました。

 

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(資料:国鉄冷蔵車の歴史、2001(平成13)年) 

しかし、うまく輸送能力の増強が進まなかった国鉄は1966(昭和41)年度に輸送トンキロのシェアを自動車に抜かれてしまいました。

 

またこの頃よりコンテナが主要となり、国鉄の冷蔵車、保冷車は姿を消していきました。

 

では、私たちが遠方の個人へ明太子、荷物を送るときに頻繁に使用される宅配便などの身近なサービスはいつから利用できるようになったのでしょうか?

 
最初に成立した宅配便はヤマト運輸の宅急便のサービスで開始したのは1975(昭和50)年です。

 

最初は関東一円から始まり一都六県をカバーしていたといいます。


全国のヤマト運輸の輸送地域のカバー率の推移は以下のようになっています。

 

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併せて宅急便の取扱個数の推移も確認すると以下のようなグラフになります。

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(資料:どん底から生まれた宅急便、2013(平成25)年) 


このように輸送地域のカバー率が高くなるにつれて、宅急便の取扱個数も順調に増加していったことがわかります。 

しかしこの宅急便のサービスが始まるまではどのような輸送状態であったのでしょうか?
いくつかの資料から確認します。



1.宅配便が始まるまでの荷物の輸送方法

宅配便が始まるまでは、個人が簡単に荷物を発送するためには、郵便小包(現在のゆうパック)か、鉄道を利用した鉄道小荷物(チッキ)しかなかった。それらは、郵便局または駅で荷物の発送をしなければならず、さらに、鉄道小荷物(チッキ)は駅で受け取る必要があった。また、郵便小包は当時6kgまでしか扱いがなかった。それらを使わない場合は、通運を利用するしかなかった

※通運については後述
(引用:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%85%E9%85%8D%E4%BE%BF)

 


2.郵便局の郵便小包、国鉄の小荷物(チッキ)を使用する荷物輸送の状況

当時人々が荷物を送ろうとした時には、郵便局に持ち込むしかなかったが、郵便局では重さが6キログラムまでの荷物しか扱ってもらえなかった。 しかし、ダンボール箱に物を入れると6キログラムを超過してしまうこともある。その場合は6キログラム以上の荷物でも取り扱ってくれたいた国鉄の駅に持参する。当時は「小荷物」といっていた。 ところが小荷物の場合、荷物が受取人の最寄りの駅に到着しても、そこから配達してくれなかった。駅の近くなら配達してくれたが、駅から遠いところでは「あなたの荷物が駅に届いているので引取りに来てください」という通知が送られてきた。これを「駅留め」といっていた。不便な場所に住んでいる人の方が悪いと言わんばかりの対応だった。
郵便局も国鉄も、集荷をせず、荷物を「もってこい」「送ってやる」というサービスだった。そのため、文具店に行って2枚の荷札を購入し、それぞれの荷札に受取人と差出人の住所と名前を書いて、荷物につけなければならなかった。
当時、私は郵便局の窓口で、「荷物を受け付けたという控えをください」と頼んだことがある。「なぜ必要なんですか」と理由を聞かれたので、「もし荷物が着かなかったとき、控えがなければ照会できないでしょう」と答えると、こう言われた。
「国を信用してください。どうしてもと言うなら、書留小包で出してください。その場合は、控えを出しますよ」
書留小包の書留料は、もちろん別料金で支払わなければならない。荷物を送る人の気持ちがわからないんだあと思った。
さらに、「この小包はいつ着きますか」と郵便局の窓口で尋ねても、帰ってくるのは、「いつ着くかわからない」という答えだった。
当時の郵便局では、小包や手紙を「郵袋」(郵便物を入れる布袋)に入れて、汐留や秋葉原などの貨物駅まで運び、国鉄の貨物列車で受取人の最寄駅まで輸送していた。郵便局の窓口でいつ着くのかと聞かれても答えられるはずがなかった。

(引用:どん底から生まれた宅急便、2013(平成25)年)

 


3.チッキについて

「チッキ」は本来、上記のように「手小荷物輸送」のうち「手荷物」やその輸送を意味するが、鉄道荷物輸送が広く行われていた当時、一般の用語法として必ずしも「手荷物」と「小荷物」を厳格に区別せず、比較的あいまいに「手小荷物またはその輸送」を指す形で用いられる傾向が少なからずあった。以下はこの用語法に基づく形で記述する。
JRの前身である日本国有鉄道(国鉄)で、最寄り駅で受発送の手続きをしていた鉄道小荷物や託送手荷物、または鉄道小荷物の受発送を指した。

(引用:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%83%E3%82%AD)

 


4.鉄道利用運送事業、通運

鉄道利用運送事業(てつどうりよううんそうじぎょう)とは、コンテナ等を使い鉄道貨物輸送で、荷主の発戸口から着戸口まで貨物を取り扱うこと。かつては通運と呼ばれており、日本通運を始めとする○○通運各社の社名もこれに由来する。宅配便が登場するまでは唯一のドア・ツー・ドアの運送形態であった


これらより郵便小包や鉄道小荷物(チッキ)は主に駅から駅までの輸送方法であり、個人の家に配達するものではなかったことわかります。

 

宅急便誕生前の戸口から戸口への輸送サービスは通運のみであったようです。


このように比較的小さな荷物を個別の家庭やオフィスに直接配送する物流は意外に新しいもので、ここで見てきた空運、陸運の情報より、利便性、運賃、個人が遠方の個人の情報を取得することの難しさからみても戦後の早い時期に遠方の個人がお取り寄せで明太子を買う事は困難であったと思われます。 


・参考文献・
昭和44年度 運輸白書
昭和36年 時刻表
どん底からうまれた宅急便
貨物をゆく
明太子開発史
国鉄冷蔵車の歴史(下)

 

 

資料倉庫

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