日本でたらこの利用が始まったのはいつなのでしょうか、明太子開発史には以下のように記載されています。

 

 1903(明治36)年、北海道岩内町でスケトウダラ漁が本格化し、たらこの利用も始まったとされる

(引用:明太子開発史、2008(平成20)年) 


これと同じ年に、たらこの原料であるスケトウダラの延縄漁を増田庄吉が始め、成功したという記述もあります。

tarako1.jpg

(資料:岩内町史、岩内町、1966(昭和41)年;古平町史(第一巻、1973(昭和48)年)

その後たらこを利用して様々な商品の開発が行われています。


その一部をここで紹介していきます。

 

紅葉子(もみじこ)は、たらこの別称です。

 

1927(昭和2)年当時の、岩内の紅葉漬け(紅葉子)を商う鹿部誠一は大正期(1912年以後)、蒲鉾、塩数の子、すけそ味醂干し、助宗子紅葉漬等を岩内の名物たらしめた。1918(大正7)年、帝都名産食料品博覧会をはじめ、数回の博覧会で金、銀、銅牌を受賞。

(引用:最近の岩宇(人物と事業)、大野紀陸、小樽新聞社、1927(昭和2)年)

 

tarako2.png

(資料:最近の岩宇(人物と事業)、大野紀陸、小樽新聞社、1927(昭和2)年)
 

これは、たらこを粕漬けにした商品です。

 

tarako3.png

(資料:日本水産製品詩、農商務省水産局、1913(大正2)年)


 

陸奥國東津軽郡青森蜆見(しじみ)町にてすけとうのはらこを酒粕を以て製す。眞鱈のはらこは大にして、淡黒白色に味、大味なれども、介党鱈の卵は小形にして、紅色を帯び味劣れり。一度塩蔵して後、酒糠に漬くるを佳良なりとす

(引用:日本水産製品詩、農商務省水産局、1913(大正2)年)

 

 

たらこの糠漬けとして、一般家庭では、たらこを片腹(半腹:魚体の中にある2つの卵巣の中の一つ)ずつに切り離し、これに塩漬けした紫蘇葉で包み、味醂、酒、焼酎等で柔らかくし、軟練り粕(諸白粕、一貫目(3.75kg)に味醂一合5勺(0.27L)、砂糖375kg(100匁)でよく練ったもの)に粕が卵に付かないように寒冷紗または、さらし布を間に引く

(引用:北海道重要製品銘参品調査、1924(大正13)年)

これは、スケトウダラの身と卵を一緒に甘酢漬けした商品です。

 

スケトウダラの身と卵を甘酢漬にした製品を親子漬けという。
大正時代に越後等から北海道に製法が伝わったと言われる。

(引用:明太子開発史、2008(平成20)年)

 

これらの商品はどこへ売られていったのか、示す資料があります。 

 

tarako4.png

(資料:朝鮮之水産、1927(昭和2)年)

北海道のスケトウダラや先に紹介した製造された紅葉子等の製品は主に北海道各地と山形、仙台、新潟、東京、名古屋、京都、大阪、下関などに出荷されたと書かれています。 

ほかにも商品の普及について大正期から昭和初期にかけて以下のような記述が存在します。

 

大正期、(1912~1926年)に北海道の岩内、江差、蚊柱方面でのすけその子は製品化され、紅葉子、朝日子、旭子、親子漬等という名前で販売された。商品として出始めた頃は仕入れの価格一貫目で一円前後であり、一円を下回ることが多く、現在の物価にして1キロ400円程度であると推定される。

昭和初期になると安い、旨いで売れ始め2倍くらいの価格になる、出始め(11月)の旨さは現在のものよりも上である。製品が定着するにつれ、すけそ、すけその子という市場の名称、生産者の付した紅葉子、旭子、朝日子等の名を消して、またすけそうたらこを簡略化し、単に語尾のたらこで通った。
だから「たらこ」と名づけたのは消費者であるといえる。

現在鱈の子はまだらの子で、スケトウダラの子(スケコ、スケソの子)は単にたらこである。

(引用:干もの塩もの、石黒正吉、毎日新聞、1975(昭和50)年)


このように昭和初期頃からたらこ商品が売れ始め、ますます消費が拡大していきました。


それに伴い消費地では品質、規格が厳しく要求されるようになり、価格、信用にも大きく影響することから北海道各地で製品検査が今まで以上に厳しく行われることとなりました。 


たらこ検査成績表

tarako5.jpg

(資料:北海魚,、1941(昭和16)年) 


しかし、1941(昭和16)年以降は戦争の影響でスケトウダラ漁獲量も減り、たらこの生産量も減りました。

その後の戦後の状況については以下の記述があります。
 

終戦後、朝鮮半島の明太子輸入の道が絶たれた明太子・たらこ業界は北海道、東北、北陸産のたらこを原料としてたらこ、明太子を生産せざるを得なくなる。このため、原料卵の主生産地北海道と明太子の主製造地下関との関係は戦前以上に密になる。
北海道のたらこ業者は紅葉子と明太子の原料卵の販売の大きな二つの販路を持つことになり、たらこ業界が活況を呈する原因となった。

(引用:明太子開発史、2008(平成20)年) 


続いて戦後以降のスケトウダラとたらこの生産量を示します。

スケトウダラ・たらこ生産量

tarako6.jpg

(資料:明太子開発史、2008(平成20)年)

1973(昭和48)年から輸入原卵たらこの取扱いが始まります。


この後に1977(昭和52)年の200海里経済水域の設定により外国からの輸入量がその後増加しています。

また近年は、原卵たらこ国内生産量は減少傾向にある事が見てとれます。

・参考文献・
明太子開発史

資料倉庫

昭和30年1月29日

(資料:みなと新聞、1955(昭和30)年)スケソウの子(たらこ)の市況戦後は皆貧しかった為、日付の特定できる写真などの資料も極めて少ない状...

戦中~戦後10年

自社編集の社史で、昭和24年1月10日にメンタイと名付けて、北海道のたらこを加工せず売ったと記述しているのは、貴重な資料です。 他方、北海道...

昭和14年11月10日

(資料:関門日日新聞、1939(昭和14)年)今年の明太子は(咸鏡南)道当局の指導と製造者の自覚で品質向上咸鏡南道出張所長 平櫛氏語る...

昭和14年10月25日

(資料:関門日日新聞、1939(昭和14)年)上から3段目、明太子極上が22円 (資料:関門日日新聞、1939(昭和14)年)健康食品として...

昭和14年9月29日

(資料:関門日日新聞、1939(昭和14)年)井ノ口商店の明太子広告※井ノ口商店に関しての資料があればご連絡お願いいたします。 ...

昭和14年9月21日

(資料:関門日日新聞、1939(昭和14)年)大阪荷受連盟会の明太子取扱い高 昭和13年度中、ざっと5万余樽...

昭和14年9月17日

(資料:関門日日新聞、1939(昭和14)年)咸南新明太子の下関入荷...

昭和14年9月

(資料:防長之水産、1939(昭和14)年)明太子倉庫建設計画のため咸鏡漁組が下関市に正式に申込む...

昭和14年8月3日

(資料:関門日日新聞、1939(昭和14)年)明太子倉庫11月上旬までに建設...

昭和14年2月8日

(資料:関門日日新聞、1939(昭和14)年)明太子の取り扱いでは下関は日本一...

昭和14年2月3日

(資料:関門日日新聞、1939(昭和14)年)明太子広告右から1行目に明太子の文字※名越商店に関しての資料があればご連絡お願いいたします。...

昭和2年2月25日

(資料:樋口丈治 (会津若松市)蔵)樋口商店の「明太子元祖」印刷入り封筒...

大正15年

(資料:朝鮮之水産、1927(昭和2)年)北海道明太、明太子製品販路の状況 檜山郡水産會のもの...

大正14年2月

(資料:朝鮮之水産(大正14年4月号)、1925(大正14)年)左から4行目に明太子の文字数量は201貫とあり、753.75kg単価は90円...

大正13年10月11日

(資料:関門日日新聞、1924(大正13)年)江原道(カンウオンド)明太子の価格左から5行目...

大正13年10月10日

(資料:関門日日新聞、1924(大正13)年)江原道(カンウオンド)明太子の価格 右から5行目...

大正11年

メンタイ(鱈子)との記述があります。 大正3年に「明太子」の記述はありますが、活字は音が確定しません。 大正11年のこの資料は、カタカナで「...

大正3年12月12日

大正3年12月12日の関門日日新聞に「明太子」の文字が初めて確認されました。 新聞というメディアの性質上、この時点で既に日本で周知の事実の言...