1945(昭和20)年、敗戦により朝鮮半島との交易が途絶えてしまいます。

そこで朝鮮半島からの引揚者を中心とする団体、朝水会が1946(昭和21)年に下関市で設立されました。
 

「朝鮮関係の水産資料も殆どない。朝鮮引揚げに際して荷物の制限もあり持ち帰るに得なかった。
参考となるべき資料があれば、ドシドシ御寄贈又は御寄稿を切にお願いする次第である。
又、店頭で水産に関するものを発見されたら購入したいからご通達ありたし。
それから、その他の水産関係者の氏名、動静、水産状況を断片的にでも結構だから通信ください。
何時までも敗戦の憂鬱を持つべきでなく、再建日本のために陽気に働こうではないか。

(引用:機関紙「朝水」の巻頭集 昭和22年3・4月号(3月発行より))


このような社会の中で生まれた朝水会はどのような団体なのでしょうか?


水産関係者の組織である朝水会は主に朝鮮半島で酒業、水産製造業、養殖業、流通、販売、水産業性、水産試験場、水産教育等に関わっていた朝鮮半島からの引揚者を中心とした団体です。

 

水産業引揚者や水産業の支援だけでなく、明太子原卵を確保、業者の事業再開を支援していました。

 

この朝水会の企業には下関市を拠点とする林兼商店、油政商店、善榮商店等があります。 

 

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(引用:明太子開発史、2008(平成20)年) 

設立の趣旨
朝鮮引揚関係者を以って、組織し、会員の更正援護を期するとともに、日鮮両国水産業の強調・発達を図るを目的とし、在鮮未帰還者の救出、會員相互の事業の連絡、就職、開業の斡旋、資金。資材、水産業及び水産業用資材の交易の斡旋、日鮮相互出漁の促進、水産技術員の派遣、水産科学、研究連絡、朝鮮水産資料の収集と発表、会員名簿の作成などの事業を行う

この他にも戦後の明太子産業の発展を支えた企業、人物を紹介します。

 

 

戦前から戦後を通して明太子の原料の確保などを行ってきた代表的な海産物問屋です。


天保の時代(1830~1843年)の間に油谷正吉が創業したと言われています。

 

その後、三由仁作が四十物(あいもの)(鮮魚と干魚の総称)業として下関市岬之町に事務所を開設し、1920(大正9)年合名会社となりました。 


どのようなことをしていたかというと以下のように説明されています。

 

特に明太子は5貫(18.75kg)入りの木樽で下関に送られ、油政商店の倉庫で樽内の明太子を底から一段ずつ、唐辛子を新たに振り、下関明太子として山口県だけでなく大阪、京都、広島などに貨物や車で運んでいた。

戦後、昭和20年後半、元釜山支店長で下関に引揚げた、山根考三は、三由界一、津田貞殻、津田平三らを中心に昭和21~22年にかけていち早く北海道たらこ(紅葉子)を仕入れ、戦前の朝鮮半島の明太子を求める注文に対して、四国、京都産等のトウガラシをまぶし、大阪、京都、広島等の市場に送ったり、原料供給会社として、地元下関の明太子製造、販売会社や博多、北九州、九州一帯に北海道たらこを卸していた。

(引用:明太子開発史、2008(平成20)年) 


終戦後の交通網が打撃を受けた中で明太子の製造や販売への最初の一歩でした。

 

また油政商店は戦前、同社で働いていた韓国人、孫利植らの人脈を通して、韓国との水産物貿易再開、貿易再開後の明太子の輸入に尽力した。
「日本人が米食を食べ続ける限り、明太子の需要はのびる」と、原料支援等を通して明太子製造業者高井商店の高井英一郎、前田海産(株)の前田一男ら多くの明太子業界を担う人材を育てる等、山根考三を中核とする油政商店は、戦後の明太子業界の創始企業としてその業績は高く評価されている。

(引用:明太子開発史、2008(平成20)年) 

 

 

高井英一郎が1947(昭和22)年末、下関市で始めた海産物店、昭和27年日本最初の明太子専門店になったと言われています。

 

1947(昭和22)年 終戦後の残務処理をしていた小樽市で北海道、樺太全域の漬物と佃煮等を扱っていた、大問屋、秋岡商店(小樽市、秋岡林之助社長)の四女、秋岡ミツと小樽市で結婚。結婚時岳父である秋岡社長より、たらこ、明太子は投球別の価格差が大きく、今後有望だから扱ってみてはどうかと言われたという。
終戦直後の交通事情の悪い中、北海道から船で東京へ、東京からは汽車で、昭和22年11月高井の郷里下関に帰着。下関市幡生駅近くに居を構え、水産物を扱う高井商店をおこし、油政商店の山根考三や北海道の秋岡商店の支援を受け、戦後の物資輸送等の難しい中、たらこを仕入れた。(中略)

たらこを二次加工して、明太子の試作・販売に取り組んだが、それだけで生活できるものではなく、昭和24年4月頃、高井は岳父の紹介で、秋岡商店と取引のあった、江崎商店(江崎東洋雄社長、漬物・佃煮問屋、門司市)の下関出張所長として入社した。

(引用:明太子開発史、2008(平成20)年)


江崎商店入社後、高井は様々なネットワーク、人脈を生かし、明太子製造、販売を軌道にのせていきました。
 

1952(昭和27)年以後、高井は朝鮮半島や水産物に全国的なネットワークを持つ下関の油政商店、北海道の秋岡商店(小樽市、夫人の実家)の漬物佃煮の製造法、熟成法、樽の詰め方等のノウハウ、ネットワーク、また秋岡商店を通しての樽業界(小樽の経済団体)や高井本人の旧日本軍時代の北海道等の人脈、江崎商店(門司市、現北九州市)の全国的な漬物、佃煮販売のネットワークを生かし、たらこに付加価値をつけた高井商店の辛子明太子(以下、明太子と略称)は作れば作る程売れる状態となり、明太子の製造販売のみでやっていける見通しが立つようになった。

(引用:明太子開発史、2008(平成20)年) 


 

高井はこの時点で江崎商店を退社、明太子製造と販売に専念、2年後の昭和29年8月11日、わが国初の明太子専門店、有限会社高井商店(会社法人2504‐02‐002113)を創業した。

(資料:明太子開発史、2008(平成20) 年)


上記の資料には明太子製造と販売に専念とありますが、下に載せている現在事項全部証明証(登記記録)には目的の欄に海産物の卸売業とあるため、明太子製造が目的であったとは言い切れない部分もあります。 

 

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(引用:明太子開発史、2008(平成20)年)
現在事項全部証明証(登記記録) 
 

 

1960(昭和35)年 取引先の業界悪化等により、高井商店は連鎖倒産するが、油政商店の山根孝三代表社員や小樽市の秋岡商店の支援等で負債を精算し、1961年(昭和36)年、高井商店は復活する。

(中略) 再建した高井商店は順調に業績を伸ばした。

しかし、1977(昭和52)年、米国・旧ソ連の200海里設定によるスケトウダラ漁獲量の急減、たらこ原料卵(原料)が断たれるという不安、いわゆる。たらこ大時化、先行き不透明な中で原料たらこの大量買付け等が裏目に出て、1980(昭和55)年再倒産した。

(引用:明太子開発史、2008(平成20)年)

1961(昭和36)年、前田商店として前田一男が創業し、1964(昭和39)年4月10日前田海産株式会社としました。
 

昭和22年から24年、宮本商店(下関)に勤務、油政商店の山根孝三の支援の下で、交流のあった高井英一郎らとともに、少量ながら明太子の加工、製造に取り組んだといわれる。
昭和23年4~9月頃、江崎商店下関出張所に勤務。
その後、江崎商店本社(当時、門司市)勤務となり、小倉、八幡、飯塚の井筒屋、大分トキハ等百貨店の江崎商店のテナントで漬物、佃煮販売主任を経て、昭和27年頃高井商店の要請により専務取締役として入社、明太子の商品開発、市場開拓に尽力する。 1961~1980(昭和36~55)年 高井商店連鎖倒産後、前田一男、美子夫妻は兄の前田實とともに、明太子製造・販売会社前田商店を創業、昭和39年明太子専門企業として、日本で初めて株式会社とし、前田海産㈱を創立する。

(引用:明太子開発史、2008(平成20)年) 


戦後、活発に明太子の製造、販売を行ってきた下関で辛子明太子市場の開発、消費拡大に努めてきています。

 


1980(昭和55)年3月に高井商店倒産の後に、㈱ニチモウと元高井商店社員山本剛を中心に同年7月7日、下関市彦島西山町の水産加工団地に創業しました。 

 


続いて博多の明太子製造、販売の企業に移ります。


 



戦後の博多の辛子明太子発展は、ふくやの初代社長の川原俊夫が1949(昭和24)年1月10日たらこ(明太子)を仕入れ、販売したことから始まったと言われています。

 

沖縄県宮古島で終戦、昭和20年12月23日鹿児島に帰り、その後、福岡に引き揚げ、昭和23年10月引揚者対象に設置された、博多中州市場の25軒の入居者として入り、食料品店ふくやを創業。

(引用:明太子開発史、2008(平成20)年)

 

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明けて昭和二十四年一月十日。(中略)
この日、初めて「ふくや」の店頭にメンタイが並んだ。従来、この日に「味の明太子」が誕生したというのが通説になっている。ところが、今回、五十年史作成のため、たくさんの方にお話をうかがってみると、どうも違うようだ。
俊夫は「味の明太子」を作り上げるまで、長い時間をかけて試行錯誤している。自信を持って世に送り出したのはもっと後になってからだ。なのに、なぜ一月十日説がひとり歩きしてしまったのか。おそらくこの日、「ふくや」に明太子の原料である「たらこ」が初めて商品として持ち込まれたからではないだろうか。(中略)
昭和24年一月十日。たらこは加工せず、釜山風に明太と名付けられて「ふくや」の店頭に並べられた。

(引用:博多明太子物語、1997(平成9)年) 

上の文章より、昭和24年に北海道たらこを仕入れて並べたことがわかります。
 

 



以下、詳しい情報はありませんが、戦中から戦後に明太子に関わったとされる企業を紹介していきます。


昭和14年2月3日に関門日日新聞にて明太子広告を出しました。
 


昭和14年9月29日に関門日日新聞にて明太子広告を出しました。
 


昭和14年10月25日に関門日日新聞にて明太子広告を出しました。
 


朝水会のメンバーで、昭和14年12月27日に関門日日新聞にて広告を出す明太子取扱問屋です。
代表社員:善長定吉

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(資料:関門日日新聞、1939(昭和14)年)

 


昭和14年12月27日に関門日日新聞にて広告を出す明太子取扱問屋です。
代表者:安井光三

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(資料:関門日日新聞、1939(昭和14)年) 

 


ここに書いてある戦後の明太子を取り扱う企業についての資料がございましたら、ご連絡下さい。
随時更新し、情報を充実させていきたいと思います。


・参考文献・
明太子開発史

 

資料倉庫

昭和30年1月29日

(資料:みなと新聞、1955(昭和30)年)スケソウの子(たらこ)の市況戦後は皆貧しかった為、日付の特定できる写真などの資料も極めて少ない状...

戦中~戦後10年

自社編集の社史で、昭和24年1月10日にメンタイと名付けて、北海道のたらこを加工せず売ったと記述しているのは、貴重な資料です。 他方、北海道...

昭和14年11月10日

(資料:関門日日新聞、1939(昭和14)年)今年の明太子は(咸鏡南)道当局の指導と製造者の自覚で品質向上咸鏡南道出張所長 平櫛氏語る...

昭和14年10月25日

(資料:関門日日新聞、1939(昭和14)年)上から3段目、明太子極上が22円 (資料:関門日日新聞、1939(昭和14)年)健康食品として...

昭和14年9月29日

(資料:関門日日新聞、1939(昭和14)年)井ノ口商店の明太子広告※井ノ口商店に関しての資料があればご連絡お願いいたします。 ...

昭和14年9月21日

(資料:関門日日新聞、1939(昭和14)年)大阪荷受連盟会の明太子取扱い高 昭和13年度中、ざっと5万余樽...

昭和14年9月17日

(資料:関門日日新聞、1939(昭和14)年)咸南新明太子の下関入荷...

昭和14年9月

(資料:防長之水産、1939(昭和14)年)明太子倉庫建設計画のため咸鏡漁組が下関市に正式に申込む...

昭和14年8月3日

(資料:関門日日新聞、1939(昭和14)年)明太子倉庫11月上旬までに建設...

昭和14年2月8日

(資料:関門日日新聞、1939(昭和14)年)明太子の取り扱いでは下関は日本一...

昭和14年2月3日

(資料:関門日日新聞、1939(昭和14)年)明太子広告右から1行目に明太子の文字※名越商店に関しての資料があればご連絡お願いいたします。...

昭和2年2月25日

(資料:樋口丈治 (会津若松市)蔵)樋口商店の「明太子元祖」印刷入り封筒...

大正15年

(資料:朝鮮之水産、1927(昭和2)年)北海道明太、明太子製品販路の状況 檜山郡水産會のもの...

大正14年2月

(資料:朝鮮之水産(大正14年4月号)、1925(大正14)年)左から4行目に明太子の文字数量は201貫とあり、753.75kg単価は90円...

大正13年10月11日

(資料:関門日日新聞、1924(大正13)年)江原道(カンウオンド)明太子の価格左から5行目...

大正13年10月10日

(資料:関門日日新聞、1924(大正13)年)江原道(カンウオンド)明太子の価格 右から5行目...

大正11年

メンタイ(鱈子)との記述があります。 大正3年に「明太子」の記述はありますが、活字は音が確定しません。 大正11年のこの資料は、カタカナで「...

大正3年12月12日

大正3年12月12日の関門日日新聞に「明太子」の文字が初めて確認されました。 新聞というメディアの性質上、この時点で既に日本で周知の事実の言...